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2005年6月

2005年6月13日 (月)

資本の「遊離」

ミハイロコフ…………。

いきなり外しますた。ごめんなさいm(__)m。(漫画『プラネテス』ネタ←ほんとヲタクやね)

さて(見なかったかのように)、「資本論講座」(第2巻)も、昨日(12日)でもう6回目、第2篇「資本の回転」も次回で終わりです。今回は「労働期間」と「生産期間」、「生産期間」と「通流期間」との関係、資本の回転と前貸し資本の運動との関係などについてです。資本が1回の回転を行う総時間は<生産時間>と<流通時間>に分かれますが、前者はさらに<労働時間>と<労働過程が中断する時間(ここで「中断」とは、自然的な発酵や乾燥など、生産過程に必要な中断を指します)>とに分かれます(図示できれば一目瞭然なんだけどな……)。

一定の時間(1年とか1月とか)に資本が回転する数を<回転速度>(3カ月で1回回転する資本は年4回の回転速度)といいます。回転速度は生産時間や流通時間の長さ、固定資本と流動資本の構成によって変わりますし、生産時間や流通時間が延長(短縮)されれば、回転速度は当然低下(上昇)します。機械設備の使用は生産時間を短縮させるとともに、固定資本の総量を増大させます。見方を変えれば、資本の集積や信用制度の発達は巨額の固定資本導入と、それによる生産時間の短縮を可能にし、それによって資本の回転時間の短縮(したがって回転速度の上昇)をも可能にします。

一方、流通時間は、その大部分がW’―G’(商品生産物の販売)の時間です。販売に要する時間が長くなれば回転速度は低下します。販売時間の差異は生産地と市場の距離、交通・輸送手段の発達程度によって生じますが、これらの発達は回転時間を短縮させ、一方で回転時間の短縮が生産と市場の集中を促します。こうして資本主義的生産の進歩は、商品流通時間の短縮を促し、それとともにますます遠い市場(さらには世界市場)を拓く必然性を作り出します。

マルクスはここで、資本の回転時間が価値増殖に及ぼす影響を考察し、資本の回転によって、資本の循環から貨幣資本が周期的に「遊離」(遊休)すると結論付けました。マルクスはこの「遊離」した貨幣資本が、前回登場した固定資本の補填準備金とともに、信用制度で利用される貨幣資本の源泉になると考えたのです。マルクスは資本の生産時間と流通時間の大きさをさまざまに変化させたモデルをいくつも検討し、いくつかの特定の場合を除いて「通例、資本の遊離が生じる。そしてその大きさは資本主義的生産の発展とともに増大する」という結論に達したのです。

マルクスの戦友エンゲルスは、マルクスが“すぐれた代数学者だったが、実務的計算、とくに商業実務的計算には不慣れだったあまり、あまり重要でない事情に過分な重要性を見出した”として、マルクスの計算を追跡し、“資本の遊離はいつでも生じるものだ”と訂正しました。とにかく、こうして資本の回転が(通例)貨幣資本を遊離させるというのが、大方の理解なわけです。

ところが最近になって、貨幣資本の「遊離」を「成り立たない議論だ」とする疑問が出されました。不破哲三氏の『「資本論」全3部を読む』④(新日本出版社)です。不破氏は、生産と流通が連続するモデルを示し、マルクスの考察は「資本の回転の特殊なタイプ」を事実上一般化する「錯覚」だと結論づけました。ライン化されて生産と流通が連続的に行われている現代的な工場の姿を想像すれば、確かに“生産を全部終えてから、まとめて流通に出る”というマルクスのモデルは無理があるかも……というわけで、面白い疑問提起だと思いました。

これに対し、この講座の講師を務めておられる辻岡靖仁氏は、不破氏の指摘について“歴史的経過を抜きに’錯覚’というのは言いすぎではないかと思うが、資本主義的生産の拡大という歴史的傾向としては、不破氏の指摘の方向にならざるをえないだろう”、つまり資本主義的生産の発展段階の違いとして理解すべきものという見解をのべておられました。(ここで紹介した辻岡氏の見解は、講義を聴いた私かわうそのまとめによるものです)

私自身は、マルクスが研究した当時も、例えば機関車製造資本と、糸製造資本とでは資本の回転の仕方も違っていたわけで、前者ではマルクスのモデルが、後者では不破氏のモデルがそれぞれ妥当だったろうと思うのです。もちろん資本主義的生産の拡大や集積、さらに信用制度の発達もありますから、発展段階の違いという面もあるとは思いますが、生産物の性格(分割できる商品体かどうかなど)や規模などによって区別する方が自然なのでは……という印象を持ちました。そうした意味では、“マルクスの’錯覚’”という不破氏の指摘は“言いすぎ”かな………と感じているのですが、ご興味とご関心がおありの方々は、どのようにお考えになるでしょうか?

またもや、果てしなく長くなってしまいましたね…………OTL

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2005年6月 9日 (木)

高尾山に行ってきました

この2週半ほど休みが取れず心身が疲れてしまったので、休みを取り、少し喧騒と離れた環境にひたろうと高尾山に行ってきました。本当はメンヘルの病院に行くつもりだったのですが、朝受付時間を確認しようと電話したら「当院は予約制です。一番早くても23日になりますよ」。 ガーン( ̄Σ ̄;)!! うぅ、何のために休みを取ったのか(んなこと事前に調べとけっての←診察時間はネット検索で分かっていたんですけどね)。じゃ、仕方ない、静かな所に行こう………、と思ったわけです。

ケーブルカー清滝駅の手前から北に向かう「1号路」から急な坂を2時間ほどかけて登りました。さすがに6月だからか、花には出会うことはできませんでしたが、緑でいっぱいでした。

途中、ふもとからけっこう上の方に至るあちこちで、羽根ないしはプロペラのような形をした葉がたくさん落ちていました。050609leaf ふだん街中では見かけない形で、以前何度か高尾山に来たさいにも見た記憶がない形でした(いつも季節が外れているか単に忘れているだけかなあ)。ガイドブックを持っていったんですが、分からなかったので、どなたか種類をご存知の方がいらっしゃったら、教えてください。

しかし、1号路をまっすぐ登る坂から急に右へ曲がって金毘羅台にあがり、尾根に出ると、とたんに中央道を通る自動車のザーッという大きな音が流れてくるのには、興をそがれました。城見台を過ぎて尾根を外れると、とたんに静けさが戻ったので、この音には不快さを感じてしまいます。

その城見台では、緑の合間に、中央道に交差する「圏央道」のジャンクションを建設しているのが見えました(写真はケーブルカー高尾山駅からのものです)。janction 高尾山をめぐっては20年ほど前から圏央道のジャンクションと、トンネルを建設する計画が起こり、周辺の住民や自然保護団体の方々が「トンネルとジャンクションができれば、高尾山の自然環境が壊される」と、反対運動に取り組んでいます(詳しくは右側のリンク集をご覧ください)。先月末にはジャンクション建設用地の強制収用(公共事業のために私有地を取り上げることです)をめぐる裁判の判決が東京地裁でありました。私も判決要旨を読んだのですが、要するに“工事でオオタカ(絶滅危惧種の猛禽類)は巣を放棄したし、完成すれば騒音や大気汚染など不利益のおそれもあるが、公共の利益が大きいので、我慢しなさい”ってことのようです。

私は、これはちょっと行政の主張を丸呑みしたものじゃないかなあ、と思うんです。確かに高速道路ができれば、便利になりますし、渋滞の「緩和」効果もあるでしょう。ただ、道路をつくって不便になるわけはないし、渋滞が緩和されるかどうかは、道路の供給量だけではなく、交通需要量との関係によって決まりますから、自動車交通量が増えれば相殺されたり、かえって渋滞がひどくなったりもします。そして「道路ができて便利になる」ことは、交通量を増やす一大要因になります。(便利になれば、車に乗る人は増えるでしょ?←これを専門用語では「誘発交通」といいます)

そうすると、自然環境を壊してでも、公害を出してでも、借金財政の国(いま国と地方の借金総額は700兆円を超えています)が莫大な財政を投じてでも(圏央道の建設費用は1㌔200億円といわれています)、つくらなければならないのか、今までの道路以上に慎重な検討が必要ではないかと思うのです。そのうえで判決について考えてみると、首をかしげてしまう点がいくつかあります(この裁判ではけっこう重要な論点があるんよ)。例を1つだけあげると、絶滅危惧種オオタカ(高尾山の隣にある八王子城跡に住んでた)が巣を捨ててしまった問題の評価です。判決は、“巣を放棄したのは遺憾だが相当な配慮もされている”としたわけですけど(国は「巣の放棄」自体を認めていないので、これを指摘したことは大事ですが)、巣を捨ててしまったのに、「相当な配慮をした」ってどういうことなのよ? それは配慮が足りなかった結果ではないの? 長くなってしまったので、詳しくはのべませんが、騒音や大気汚染のおそれに対する評価(とくにアセスメント自体の評価)もそうです。それから、「公共性、公益性」を考えるなら、自然、緑が持つ公共性、公益性について、評価はされているでしょうか? こうしてみると、やはり道路計画についての検討が慎重さを欠いているのではないか、と、私は思うのです。

……途中から道路と裁判の話になってしまいましたね。車の音を聞きながら歩いていると、そんなことを考えてしまうわけです。話を戻して、途中の「権現茶屋」さんに寄って、お昼をいただきました。「初夏の有喜弁当」という、松花堂弁当形式の精進料理です。箱に入っていたのは「枝豆豆腐」「大杉年輪(蓮芋)」「彩り寄せ」「加賀太胡瓜とジュンサイ」、あと「五穀飯」と椀、天ぷら、香の物がついて、値段は1000円。「食通」(こう自称する方々ってなんだかねえ…)じゃないので、御託を並べることはできやしませんが、んまかったです^^。「んまそ~」と思われた方々、ご自分でお出かけください^^。

で、高尾山薬王院(ここは真言宗の大本山なのです)に行って、天狗様のご尊顔ootengu kotengu を拝見して(左が大天狗、右が小天狗)いたら、山頂に行く時間がなくなってきたので、途中で北へ回り、「いろはの森」(いろは48文字を冠した木が植わっています、「い」はイロハモミジ、「ろ」はロクロギ、などなど)を通って、帰ってきました。

結構歩いたので、明日以降の筋肉痛が心配です。たははは……。

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2005年6月 7日 (火)

しばらくバタバタしてたら…、

またもや、あっという間に日がたっちゃいましたね。その間にあった出来事とか、関わっている分野でのニュースとか、いくつかあったんですが、ちょっと時期が過ぎたかな。そのうち何かの形で書いていこうかと思います。

ところで、「いずれ補筆します」と宣言しておきながらずーーーーっと放置していた「資本論講座」のうち、「資本の循環」の話(書き始めたのは2月ですよ)、やっと補筆して、「うp」しました。左下にある「2月」のバックナンバーか、「学問・資格」のカテゴリーから読めるはずですので、気が向いた方はご覧ください。

この講座とは別に、以前から『資本論』現行版(エンゲルス版)のメモづくりをちびちびと続けている(半分ウソ。途中第1巻の途中でかなり長いことサボって中断していました)のですが、最近、第2部第3篇のいわゆる「アダム=スミスのドグマ」批判のところにさしかかっています。「スミスのドグマ」というのは、「商品(もしくは年生産物)の価値は賃金、利潤、地代によって構成される」というもので、スミス以来の(近代)経済学はマルクスの経済学を除いて、この立場を受け継いでいます(まぁ、近代経済学は価値論なんてほとんど注意を向けなくなってしまってますけどね)。この立場は「…構成される」から「賃金、利潤、地代が源泉である」というものに“発展”しています。これでは商品の価値源泉(だけでなく利潤の源泉も)がとらえられなくなってしまうんですね。

この問題は、「V+Mのドグマ」と呼ばれることが多いのですが、私が学生時代、勉強した『資本論』の師匠は「これを『V+Mのドグマ』と呼んではいけない!!」と力説しておられました。曰く、「再生産論の発展史におけるスミスの意義と限界を正しくとらえることができなくなる」とのことで、この点は師匠の主要業績の一つなのですが、私には何となくよく分からないまま、何年もたってしまい、いただいた著書も本棚に埋もれていました。で、数年ぶりに『資本論』のこの部分を読み返しているわけですが、確かに師匠の強調した通りではないかな…と、あらためて感じています。細かい話は、そのうち「講座」でも通りかかりますから、その時にでも。(といって逃げる^^;)

メモづくりは、そのまま第20章「単純再生産」に入ります。いよいよ再生産表式が登場します。これがまた大変。

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