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2006年1月19日 (木)

だから今『資本論』講座かも(続き)

てなわけで、さらに日が開いてしまいましたが、『資本論』講座についての続きです。

18世紀から発達を始めた資本主義は、19世紀初頭に最初の成熟期を迎え、資本主義的な過剰生産恐慌も周期的に現れるようになりました。ナポレオン戦争の終結後、各国で18世紀以前の支配体制に戻そうとする反動政治が強まるなかで、資本主義の発達とともに増加した労働者による闘争も、そしてそれとともに社会主義思想も広がっていきました。こうした情勢のもとで、マルクスは「市民社会の解剖学」としての経済学の研究を開始し、1867年に『資本論』第1巻の初版を刊行したのです。

マルクスはその後も経済学や関連する社会・自然科学について研究を続け、恐慌の“運動論”や銀行の発達、土地所有をはじめ研究の諸成果を『資本論』の充実に結実させようと努力しました。マルクスはその途上の1883年に死去しますが、戦友エンゲルスがマルクスの遺した草稿を編集し、『資本論』第2巻、第3巻として出版しました。現代では、マルクスの思考過程を追跡する研究が行われ、新しい『全集』(通称「新MEGA」)の編集が続けられています。

経済学をはじめ社会科学では、自然科学と対比して、独自の困難があります。自然科学では、ある現象とこれについての仮説を検証する場合、それが純粋な形で現れる状態を再現し、実験を行います。ところが、人間社会そのものを対象とする社会科学では、そんな実験は困難なので(行政が個別の施策について行うモデル事業はありますが、市場経済自体をどこかで再現することはできません)、「抽象力」、つまり思考をもって代えるしかありません。マルクスは研究を通じて、「ブルジョア社会にとっては、労働生産物の商品形態または商品の価値形態が経済的細胞形態なのである」(初版序文)、つまり商品の価値形態(しごく大雑把にいうと、どうして「缶ジュース1本=120円」となるのかという必然性)に資本主義経済の根底的な秘密が隠れていることを明らかにしたのです。

◆「全て始めは…」といわれても

『資本論』が商品の分析から始まっていることで、読んでみようと挑戦した方のなかにも「冒頭から、こんな抽象的でチマチマした議論につきあってられるか!」とブチ切れる人が多いです。「もっと労働の現場のズバッとした描写から入ってよ」とこぼす人もいます。そういう人たちに対して、マルクスはごていねいにも釘を刺してくれています。「全て始めは難しい」(初版序文)とか「学問に平坦な大道はない」(2版後書き)とか。「んなこといわれても、気休めだよ」という人もいますし、私も初めて読んだ十数年前には、そう思ってザセツしました_| ̄|○。ま、ただ我慢して読んでいって後から振り返ると、だいたいの構造が見通せるようになりました(ホントかよ?)。そんなわけなので、ここはとりあえず我慢して読んでみましょう。(苦笑)

◆「利潤優先」は個人の責任に解消できない

さて、現実の経済では、「サービス残業」問題や、パート・アルバイト社員を「明日から来なくていい」と一言で解雇しようとするなど“アコギ”な事件が繰り返し報じられています。さらに、この間、ニュースで繰り返し報じられている耐震強度偽装問題や、この問題に政権がうまくぶつけさせた(?)といわれるライブドアの問題、安全確保の体制をおざなりにしたゆえのJRの事故の問題も相次ぎ、「もうけをあげるためなら、何をしてもイイのか?」という批判があがりました。もちろん、利潤(もうけ)を確保するために違法な行為を行ったり、安全確認の体制を手抜きする経営者の姿勢は許されません。しかし、もうけをあげないと市場での競争戦で敗北し没落するわけですから、もうけを他の全てに最優先し、さらに際限なく追求するという姿勢は、社会全体で見れば、個々の経営者がイイ人であるか、悪者であるかにとどまらない問題なのです。

マルクス以前の社会主義(共産主義)者は、「理想的な経営」を行うことでこうした問題を解決できると考えていました。有名なのはロバート・オーエンという人で、この人は自分でそういう企業体を実際につくりました。ちなみに「幼稚園」もその努力のなかで生まれたもので、彼は実は「幼稚園の父」でもあるのですね。

マルクス、エンゲルスは資本主義社会の分析を通じて、資本主義の運動法則自体に、経営者・資本家を競争に強制的に参加させる仕組みがあることを見出しました。そして、マルクスは『資本論』初版の序文で、社会における個人の位置について、

「ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係の担い手である限りでのことである。経済的社会構成の発展を一つの自然史的過程と考える私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとすることはできない。というのは、彼が主観的にはどんなに諸関係を超越していようとも、社会的には個人はやはり諸関係の所産なのだからである」

と、のべました(ちなみに時々、マルクス、エンゲルスの学説について、「性善説」に立って「人間を理想化している」とか、逆に「憎悪の哲学」だなどとして批判する方がいますが、この種の批判は、マルクス、エンゲルスが個人についてこういう立場を取っていたことに目を向けていないように思います)。ただ、マルクス、エンゲルスも、個々人の行動や思惑を全て社会構成の問題に解消する立場を取っているわけではないのですが。

ま、そんなわけで、今後はいよいよその“本論”に入っていきます。

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