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2006年2月

2006年2月28日 (火)

「まなちゃんを救う会」からの呼びかけ

私が学生時代にお世話になった方について、数日前、緊急の呼びかけをいただきました。この方のお嬢さんが大変な難病になられ、緊急な手術が必要になったとのことです。仕事でバタバタしていて、紹介するのが遅れましたが、ここで紹介させていただきます。(下は呼びかけについての新聞報道の一つです)

「愛の手で救って まなちゃん余命5カ月」(東京新聞)

 重い心臓病を患い、余命五カ月と診断された東京都多摩市の石榑愛(いしぐれ・まな)ちゃん(八カ月)が米国で心臓移植手術を受けられるよう、両親や医師、友人らが二十七日、都庁で会見し、手術費や渡航費などへの支援を呼びかけた。
 会見した父親の会社員、光一さん(38)らによると、愛ちゃんは生後五カ月で心臓のポンプ機能が低下する「拡張型心筋症」と診断された。昨年十月から同市の日本医科大多摩永山病院に入院し、投薬治療を続けているが、今年一月に余命半年と診断された。
 米国カリフォルニア州の病院への受け入れが決まったものの、移植手術や滞在の費用に約一億三千六百万円かかるという。

「拡張型心筋症」というのは、「日本心臓財団」のサイトによると、血液の心臓への受け入れ、心臓からの送り出しに必要な心筋(心臓の筋肉)の状態が、特定できない何らかの原因で悪くなり、心筋の外壁が薄くなり、心臓の機能が低下する病気なのだそうです。この病気は現在、心臓移植でしか完治しないとのことですが、日本の臓器移植法の年齢規定から、移植は海外で受けるしかないということです。

募金の振込先は、

三井住友銀行東京中央支店
普通預金口座7856113「マナチャンオスクウカイ」

三菱東京UFJ銀行京橋支店
普通預金口座2900655「マナチャンオスクウカイ」

郵便振替(現金振り込みは窓口のみだそうです)
10130-7-4725961「マナチャンヲスクウカイ」

問い合わせは「まなちゃんを救う会」℡042(357)9980とのことです。趣旨に賛同できる方々のご協力を、私からもお願いいたします。

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2006年2月25日 (土)

♪春なの~に~(まだ少し早いか)

知り合って15年以上になる研究者の友達から、「就職が決まった」という知らせをもらいました。学生時代はよく学校やバイト、サークルなどでいっしょに飲んだり、議論(といえるほど体系だったものじゃなかったな)したり、遊んだりしていました。ここ数年は月に1、2度ほど、飲みながらオバカな話、ヲ●クな話やら、時事談議などを交わしていたのですが。

友達はいくつかの学校で非常勤講師を務めたり、時には社会的な場で発言を行いながら、職を探してはいたのですが、なかなか見つからず(近年とくに人文・社会科学系は募集が大変少なくなっています←こんなんで日本の「学」の将来はええのんか?!)、苦労していたようなので、見つかって、本当によかったと思います。

見つかった職場が大変遠い所にあるので、4月以降は当然、その近くに引っ越すことになります。そうすると、今までみたいにいっしょに飲んだくれてオバカな話や●タクな話をすることはできなくなるわけですね。

一方、やはり知り合って15年ぐらいになる別の飲み友達(こちらも研究者)も、ご結婚なさることが決まり、西の方へ移り住むことになりました。こちらの友達は力があって論文もなかなかの評価を得ているのに、どうもめぐり合わせが悪く、就職に至っていないわけなのですが、お連れ合いとの結婚生活を営みながら引き続き修業に励むのだそうです。

年度替りを控えたこの時期は、付き合いの人たちとお別れすることがどうしても多くなってしまいます。これまでしょっちゅう顔をあわせ、飲んだくれていた友達とも、もう滅多に会えなくなるのだなあ、と思うと、大変寂しいのですが、ぜひとも新天地で頑張って、さらに力をつけ、そして大きな活躍をしていってほしい、そして、いつか「いいものをつくる」という評判が私の耳目に届く時が来てほしいなあ………、と思うわけです。

それにしても思うのは、別にこれらの友達がかかわっているからいうわけではありませんが、日本のいわゆる「研究者」育成・養成が1980年代以降の「大学改革」論議などで、人文・社会科学系を冷遇しているんじゃないかなあ、ということです。ビジネス・スクールやロー・スクールといった高度専門職業人の養成課程はいろいろ拡充しようとしていますが(これ自体は悪いことだとは思いませんが)、大学などでも産学(公)連携の研究をしているか、とか、外部資金(要は企業の寄付)をどれだけ集めたか、ということで研究予算を傾斜配分する……、といったことが各地で聞かれます。

で、人文・社会科学系は専門職業人養成課程を除いて、たいてい大した利潤をあげることはできませんから、国も大学も法人も不熱心になり、縮小していっています。それが最近、一番ロコツな形で現れたのが、東京都立4大学や横浜市立大学の「再編」でした。前者では、日本でも有数の研究水準といわれていた人文学部を丸ごとぶっつぶしたわけです(これに対しては全国の研究者から反対の声があがっていました)。とかく当座の利潤につながる見通しがないからって、まともに予算を配分せずおいていたら、次代の「知」をつくることはできなくなっていくと思いますね。友達やそのまわりの人たちが研究の「生みの苦しみ」だけでなく、こんなことにまで苦しまされていて、大変だと思いますが、何とか頑張っていってほしいものです。

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2006年2月18日 (土)

「商品の巨大な集まり」という資本主義社会

仕事やら虫歯(苦笑)やらでバタバタしている間にだいぶ時間がたってしまいましたが、東京学習会議の『資本論』講座、いよいよ本論に入っております。1月下旬、2月、3月の3回の講師は鶴岡高専教授の山内清先生です(山形県からお越しいただいて、ありがたい限りです)。が! 2月12日の回は、本来出席できるはずだったのですが、仕事が入ってしまったために、残念ながら出席できませんでした_| ̄|○

前回紹介した『資本論』第1巻の序文で、“全てはじめは難しい”というのがありましたが、第1巻の冒頭、商品の分析から貨幣の発生の必然性にいたる部分は、とくに難しいとして“悪名”高く、ここでザセツしてしまう方が多いのです。その冒頭は、次の有名な言葉から始まります。

「資本主義的生産様式が支配している諸社会の富は、『商品の巨大な集まり』として現れ、個々の商品はその富の要素形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は、商品の分析から始まる」(第1巻第1章第1節「商品の2つの要因」)

資本主義社会では、商品やら貨幣やら株式やらの“富”が、国内だけでなくそれこそ世界中を飛び回っています。これらは一体何物であるのかを分析し、突き詰めて考えていくと、これら“富”は、結局は商品であることが分かります。資本主義社会ではほとんどあらゆるものが商品、つまり市場で売買(貨幣と交換)するために生産されたものです。私たちの身の回りで、商品として生産されなかった物なんて、ほとんどないでしょ? そこでマルクスは、商品とは何であるのか、それがどのようにして社会の“富”を形作っているのかを論理的に追跡し、明らかにしていくわけです。

まず、資本主義社会を含め人類社会は労働によって生産物を生み、それを分配して、消費することで次の日の、次の年の、さらに次の世代の人類をつくり出していく(これを再生産といいます)わけですが、資本主義社会(さらに広くとらえれば「市場経済」、つまり商品生産社会)では、ただの生産物ではなく「商品」、つまり貨幣を媒介に他人と交換するための生産物として生産されています。この“謎”を解明するのが、冒頭の「商品論」といわれる部分なのです。

マルクスは商品を「使用価値」と「価値」との2つの性質をあわせ持った物として把握しました。「使用価値」は人間の何らかの欲求を満たす性質(有用性)を持った労働生産物ということで、有用性を持たない(何の役にも立たない)物は使用価値ではなく、商品にはなりません。「価値」は、ある使用価値が他の使用価値とある比率(例えば米1キロ=ノート5冊というように)で交換される(これを「交換価値」といいます)、ということに現れます。

こうした商品交換がある社会で一定の比率で行われる背景に、マルクスは「これらの商品は、人間の労働力が支出され凝固した労働生産物なのだ」という共通した性質があることを見て取りました。そして、商品の価値の大きさは、その労働の分量、つまり生産物をつくるのに社会的に必要とされる労働の継続時間(ですから「労働者がサボったり不熟練であるほど価値が大きいと考えたんだ」というのは全くの誤解です)によって決まると考えました。価値は貨幣(これ自体がある特殊な商品なのです⇒後述)によって「価格」として表現されます。まあ、ここではあくまでも最も抽象的な思考の段階での把握でして、資本主義的生産が発達した社会では商品の価格は生産価格(費用価格+平均利潤)として成立し、さらには独占利潤までも含めて価格が形成されるのですが、それらについて考察するためには、さまざまな“中間項”が必要になりますので、また別の機会に。

そして、商品が「使用価値」と「価値」という2つの性質をあわせ持つものだということは、商品を生産する労働(ここで注意する必要があるのは、労働一般ではなく、「商品を生産する労働」だということです)自体が二重の性質を持っていることから発生しているということです。その二重の性質とは、米とかノートとかいった具体的な使用価値をつくりだす「具体的な労働」と、人間の労働力一般の支出という「抽象的な労働」という性質です。したがって社会の生産力が上がれば同じ時間で、同じだけの労働力の支出で、より多くの使用価値を生産することができるわけで、商品1単位あたりの価値は下がることになります。

よく大学などで行われる経済学の講義で、「商品の価格は需要と供給のバランスで決まる」とか、「財の『効用』が商品の価値を決める」などといわれることがあります。確かに価格が需要と供給の関係によって変動する現象はあるわけですが、この考えでは、その「バランス」が一致した(あるいは平均化された)状態で商品の交換される割合(先ほどの例でいえば米1キロとノート5冊が釣り合い交換されるという比率)がどのように決まるかについて、説明できません。

また、「効用が価値を決める」という説明も、米とノートは効用が違うから交換されるわけで、質的に全く違う、また個々人の主観によっても変わってくる「効用」が、どのようにして市場で交換される客観的な比率として定着していくのかについて、説明できないわけです。これらの考え方では説明できないのは、結局、これらの考え方が商品の「使用価値」と「価値」という2つの性質を混同してしまっているからだといえるでしょう。

さて、マルクスは『資本論』でこのあと、「価値形態」「商品の物神性」「交換過程」について考察を進めていきます。12日の山内先生の講義は、ここの部分について行われたわけですが、冒頭のべた事情で、残念ながら欠席しました。このあたり、詰めて考えると結構面白いんだけどな……。かさねがさね残念です。

てわけなので、この部分の課題を一言で言い表した、マルクスの有名な言葉を紹介しておきます。

「一商品の等価形態はその商品の価値の大きさの量的規定を含んではいない。金が貨幣であり、それゆえ他の全ての商品と直接的に交換されうるものであることを知っても、それだからといって、例えば10ポンドの金の価値がどれだけであるかは分からない。……すでに17世紀の最後の2、30年間に貨幣分析の端緒はかなり進んでいて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒に過ぎなかった。困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある」(第2章「交換過程」)

あ、そうそう。この講座では参加者が班ごとに分かれて討論(短時間ですが)を行います。ワタクシ、この班の1つで司会を務めることになってしまいました。参加者の方に「腑に落ちた点」「疑問に感じた点」などについていろいろ出し合ってもらうのがお仕事なんですが、どうもこういうのって大昔からものすごーーーーく苦手なんですよね………_| ̄|○

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2006年2月14日 (火)

歯を抜きました

たった今、歯医者から戻ってきました。ついに左下の奥歯を抜きましたよ。写真は抜いた歯です。歯根まで黒くなっていました。feb14_1303.jpg先生によると、これが虫歯で、「だから抜くしかなかった」のだそうです。え? 「見苦しいものを見せるな」と? その通りですね。ははは。

歯医者に行った時、目の前にペンチみたいなのが置いてあったのに、かなりビビり、「やっぱり帰りてーーーーっ!」と思いましたが、口の中に麻酔の注射をした時に痛かったぐらいで、実際の作業中は、押される感覚はあったものの、時折、「ゴリッ」という音や、一、二度「バキッ」という音がした程度で、20分ぐらいで、終わってしまいました。(「程度」なんてもんじゃないだろ、と自分ツッコミ)

まだ麻酔が効いていて、口の中がしびれているので、しゃべるのも苦労する(この後、職場の会議なのに……)し、そのうえ、つばがたまって、飲み込みづらいのが、たまりません。

………と書いているうちに、麻酔が薄らいできたのか、歯を抜いた跡から鈍い痛みがじわじわじわじわじわ……と広がってきました。どうも明日か明後日ぐらいまではかかるそうな。会議の後、夜も仕事なのに(泣)

【同日夕・追記】痛くて昼飯を食べ損なったので、さっき、立ち食いのうどんを食べてきたのですが、歯が1本ないだけで、口の中にものすごい違和感がありますね。うどんも食べにくいし。今更ながら大きな存在だったのだなあ_| ̄|○と、まだ続く鈍い痛みとともに感じています。抜いた歯の跡は、「ブリッジ」を渡すとのことですが、どうなるんだろう………。

【15日午前・追記】麻酔が切れてから、鈍痛が続いています。痛み止めを飲めば、しばらくはおとなしくなりますが、そんなに長い時間、もたないし…。これから3回目の痛み止めを飲んで、仕事の出先に行かなければ………。いつまで続くんだろ_| ̄|●

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2006年2月10日 (金)

横浜事件再審、名誉回復されず

戦前の治安維持法による言論弾圧事件「横浜事件」の再審判決は、大変残念なものとなりました。

「横浜事件 再審は免訴 戦時下の言論弾圧に判決」(中日新聞)

 戦時中最大の言論弾圧とされる「横浜事件」の再審判決公判が九日、横浜地裁であり、松尾昭一裁判長は、すでに故人となっている元被告五人全員に、有罪か無罪かを判断しない「免訴」判決を言い渡した。神奈川県警察部特別高等課(特高)に治安維持法容疑で逮捕され、終戦直後の混乱期に有罪判決を受けた雑誌編集者らは、約六十年ぶりのやり直し裁判でも名誉回復はならなかった。弁護側は判決後「直ちに控訴する」と述べた。
 ◆有罪、無罪判断せず
 松尾裁判長は「治安維持法が廃止され、被告人らは大赦を受けた。免訴理由が存在するため有罪・無罪の裁判をすることは許されない」と述べた。
 再審公判で弁護側は無罪を主張し、証拠採用された生前の元被告らの証言ビデオの上映などを通じて、過酷な拷問で虚偽の自白に追い込まれた経緯や当時の横浜地裁のずさんな裁判手続きを詳述。遺族四人が証言し、元被告らの名誉回復や事件の全容解明を求めるとともに、「司法の戦争責任」を認めるよう訴えた。
 検察側は「治安維持法は刑が廃止され、当時の罪の大赦も済んでいる」などとして、免訴を主張していた。
 旧刑事訴訟法下で有罪が確定し、死亡した元被告の再審は初めて。裁判記録のほとんどが保管されておらず、再審で審理する「犯罪事実」は弁護団が復元した原判決の内容とされた。
 再審は昨年の十月十七日に初公判があり、十二月十二日の第二回公判で結審した。
 再審被告は、元中央公論社社員、木村亨さん▽元改造社社員、小林英三郎さん▽元古河電工社員、由田浩さん▽元日本製鉄社員、高木健次郎さん▽元南満州鉄道調査部員、平舘利雄さん(いずれも故人)。
  ■横浜事件 「共産主義を宣伝した」などとして1942年から終戦直前にかけ、治安維持法違反容疑で雑誌編集者ら60人以上が神奈川県特高課(当時)に逮捕された言論弾圧事件の総称。30人以上が起訴され、多くは終戦直後に有罪判決を受けた。獄死者は4人。拷問した警察官3人は戦後、有罪が確定した。再審請求は4次にわたり、横浜地裁は2003年、3次請求について再審開始を決めた。東京高裁も決定を支持し確定。05年10月から再審公判が始まり、同12月に結審した。
 ■免訴 検察官の公訴権がないことを理由に、犯罪事実の有無を判断せず裁判手続きを打ち切る制度。刑事訴訟法は(1)同じ犯罪について確定判決がある(2)犯罪後に刑が廃止(3)大赦(4)時効成立-の場合は、免訴の判決を言い渡さなければならないとしている。旧刑訴法にも同様の規定があった。
 ■治安維持法 日本共産党を中心とした革命運動などを取り締まり対象とし、1925年4月に公布された。3年後には最高刑が死刑に引き上げられ、労働組合やプロレタリア文化運動などの参加者にも適用を拡大。作家小林多喜二虐殺(33年)などが起きた。戦時下で思想、言論弾圧の強力な武器とされ、終戦前の横浜事件では雑誌編集者や新聞記者らが大量に逮捕された。敗戦を受け45年10月、勅令により廃止され、大赦が行われた。

報道された判決要旨によると、元被告関係者らが“免訴判決では、原判決の瑕疵(かし)を不問に付すことになる”という批判に対し、「相当の重みを持つことは否定しがたい」としながら、「原判決は、本判決の確定によって完全に失効する」のであり、免訴判決が「被告人らの名誉回復の道を閉ざすものということにはなら」ないとしました。

しかし、関係者が求めていたのは、戦時中に警察や検察、司法が行った過ちの是正措置でした。「法の廃止」を理由として、弾圧を加えた国家の判断が正しかったのかについての検証がうやむやにされてはならなかったと思うのです。

治安維持法は、「国を統治する全権限を天皇が握る専制政治」の打倒をめざしていた日本共産党の存在自体を「犯罪」として敵視し、同党を中心とした革命運動、反戦・平和運動、さらには天皇中心の国家のあり方(「国体」)を否定する人たち、疑問をはさんだ人たちを「犯罪者」として扱い、死刑を最高刑として、弾圧を加えました。上記報道でも紹介されている小林多喜二(彼は同党員でした)の虐殺、経済学者で同党責任者だった野呂栄太郎の事実上の虐殺をはじめ、約200人を虐殺・拷問死に、約1500人を獄中病死に追いやり、逮捕・投獄者は数十万人に達したといわれています。そして、こうした装置で“銃後”の国民の口をふさいで、日本はアジアへの侵略戦争を遂行していったのです。

戦後制定された日本国憲法は、天皇を「神聖ニシテ不可侵」とした立場を否定し、「主権が国民に存する」ことを明確に規定しました。また、国民が「すべての基本的人権の享有を妨げられない」として、基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」と位置付けました。つまり、治安維持法の立脚点を大本から否定したのです。

ハンセン病問題では数年前、「らい予防法」などにもとづく患者・元患者の隔離・差別政策が国の誤りであったことを、司法が断罪し、国の責任による補償が始まりました。しかし、治安維持法の犠牲者に対しては、国からは何ら謝罪も補償も行われていないのです。横浜事件の再審判決で、国の誤りを断罪することは、その是正の第一歩を踏み出すうえで、どうしても回避できないだけに、今回の免訴判決は、誤りの上塗りにしかならないと思うのです。

さらに、過去に対する自己検証の視点は、今日的な問題でもあります。東京新聞は10日付の社説で、

「近年、ビラ配りなど表現にかかわる軽微な違反行為で相次いだ逮捕や拘置も、裁判官の出す令状に基づいている。犯罪とされた行為が民主主義の基盤である表現の自由にかかわるだけに、もっと慎重な判断が期待される。
 週刊誌などの報道を委縮させ、多様な情報の流通を妨げている名誉棄損慰謝料の高騰は、国会で某党議員が最高裁事務総局幹部に引き上げを迫ったことが引き金になった。
 露骨な弾圧こそ影を潜めたが、人権擁護法案など言論・表現や報道を規制する試みも相次いでいる。横浜事件は決して過去の話ではない」

と書いたことには注目し、銘記しておく必要があると思います。

なお、このさい、もう一言しておきたいのは、事件当時にメディアが果たした役割についてです。読売新聞10日付の1面コラム「編集手帳」は、

「新聞も眼をつぶされ、口を封じられ、『横浜事件』では言論弾圧を傍観する立場に甘んじている」

とのべました。他の全国紙の社説や1面コラムが、事件でメディアが果たした役割に一言もふれなかった(「産経」は1面コラムでもふれていない)なかで「読売」だけがふれたという意味では、大事な指摘だと思います。ただ、こちらの方がはるかに重要なのですが、「読売」をはじめメディアは単に「傍観する立場に甘んじ」ただけでなく、弾圧に積極的に加担する、あるいは当然視する立場で事件を報じたのではなかったのですか? そのことの自己検証も、司法の自己検証とともに問われているのではないですか? 他人事でいられては困るのですよ。

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2006年2月 9日 (木)

虫歯………

むかーし昔、仕事が忙しくなって歯医者に通えなくなり、治療中のまま放置していた左下の奥歯が、この二、三日、少し痛み出してきました。普段はどうということはなかったんですが、物を食べるとき、件の歯で食べ物をかむと、鈍く痛みが走るようになっていたんです。

ついにキタ! と思いつつ(いえ別に喜んじゃいません)、ご無沙汰していた職場そばの歯医者にいくのはバツが悪いので、そちらとは反対側にある別の歯医者に行きました。

で、レントゲンを撮ってもらい、結果について先生が説明………、

「あ~、これはもう抜くしかないなあ」

なんですとーーーーーーーーーーぉっ?????!!!!!

先生によると、歯に以前開けてあった穴のふたが外れ、長年の怠慢生活のなかで、詰めてあった薬も抜けていき、やがてそこから虫歯が歯根の“壁”に広がっていったのだそうです。壁が薄くなった状態の歯根を残したまま、上にふたをしても、支えられるかどうか分からないとのことで、結局、抜くしかないと………orz

神経は以前の治療ですでに取ってあったし、抜く時は麻酔をかけるので、それほどの痛みはないとのことですが、麻酔が切れたあと、鈍い痛みや、腫れが出る可能性が高いそうです。

ガクガクブルブル((((((((((;゜д゜))))))))))ガクガクブルブル

まあ、これまでだいたい治療中のまま、まるで狙われていたかのように仕事がド多忙になり、それに負けて放置プレイし続けてきたせいではあるのですが、それにしても、とうとう抜かなきゃならないのか…………orzorzorz

さらに、ついでに他の歯も見てもらったところ、これほどではないにしても、右下の奥歯をはじめ、口内各地に虫歯や“なりかけ”があることが発覚! これらもおいおい治療をしていく必要があるそうです。はぁぁぁぁぁ………orzorzorzorzorzorz

てわけで来週火曜日に1本抜いてきます。(苦笑)

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2006年2月 3日 (金)

「首相『格差悪くない』 改革批判に反論」(NIKKEI NET)

小泉「構造改革」による社会的格差の拡大が問題となり、通常国会でも大きな争点となっていますが、小泉首相はこれまで「格差の拡大は確認されていない」と言っていましたが、ついに「格差は悪くない」とまで言ってのけました。

「首相『格差悪くない』 改革批判に反論」(NIKKEI NET)

 小泉純一郎首相は1日の参院予算委員会で「格差が出ることが悪いとは思わない」と述べ、社会の格差が広がっているとの見方に真正面から反論した。ライブドア事件をきっかけに強まる「勝ち組」批判も「成功者をねたんだり、能力ある者の足を引っ張ったりする風潮を慎まないと社会は発展しない」とばっさり。格差論争に一段と火が付きそうだ。
 この日の質疑では与野党とも「格差拡大」を懸念する発言が相次いだ。自民党の市川一朗氏は「改革一本やりでいいのか」と構造改革路線に疑問を挟んだ。
 首相は「どの時代にも成功する人、しない人はいる。負け組にチャンスをたくさん提供する社会が小泉改革の進む道」「今までが悪平等だった」などと言い返した。
 さらに「影ばっかりだったところにようやく光が出てきた。光が見え出すと影のことを言い出す」と格差批判を一蹴(いっしゅう)した。 (21:01)

経済的格差の拡大については、以前から多くの統計資料で明らかにされてきましたが、政府は先月の月例経済報告に関する関係閣僚会議の資料(pdfファイル)で、「主に高齢化と世帯規模の縮小の影響」とする「見かけ上」のものだとしていました。しかし、事実として格差が広がっていることは、生活保護や就学援助の受給世帯数が大きく増加していることからだけでなく、世帯人員を調整したOECDの国際比較資料(つまりこの比較を見るならば「世帯規模の縮小」ということは言えなくなるわけです)などによっても、明らかなのです。

政府が格差拡大は「見かけ上」のものだと強調してきたことは、それ自体、格差の拡大が好ましくないという認識に立っていたからこそであることを示しているといえます。格差の拡大が「悪いことではない」のであれば、拡大の事実を認めても、痛くも痒くもないのですから。

ところが、小泉首相は、ついにその域に踏み込んでしまったのですね。それだけでなく、格差拡大に対する批判を「成功者へのねたみ」とか「能力ある者の足を引っ張る風潮」と切って捨てたのは、小泉首相としてはある意味「やはりな」と思うわけですが、そういう立場を取ってしまえば、格差の是正は必要ないものとなり、したがって社会保障をはじめ、所得を再分配し格差を是正する施策は全く無意味な、少なくとも意義の薄い施策ということになると思うのですが、この点はどうするのでしょうか。実際、年金の切り下げや医療費の負担増もバシバシやってきましたからね。

それから、「負け組にチャンスをたくさん提供する」といいましたけど、そんなもの、大してやっちゃいないじゃないの。実際、以前にもこのサイトで書いたことがありますが、労働法制の規制緩和を受けて、正規雇用は大きく減少する一方、パート・アルバイト、派遣などの非正規・不安定雇用は大きく増大し、いまや全体の三分の一、若い世代になれば約半数が非正規雇用となっています。また、企業のリストラも進みました。果たして、リストラされた人や非正規雇用が正規雇用になる道がどれほど開かれているのでしょうか。開いてきたのでしょうか。確かに「負け組」とされた人のうち、はい上がることに成功した方もいるでしょう。しかし、「負け組」の大多数は、はい上がれないままです。この人たちが出るのはやむを得ないこと、いや当然なことなのでしょうか。

非正規雇用のもとに置かれた若い人たちが大変な目にあっていることは、多くのブログやテレビの報道・ドキュメント番組でも広く指摘されていることなので、省略しますが、こういうのを見聞きするたびに、私は、マルクスが『資本論』第1巻の終わりの方で行った、次の言葉を思い出さざるを得ないのです。

「一方の極における富の蓄積は、同時に、その対極における、すなわち自分自身の生産物を資本として生産する階級の側における、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、野蛮化、および道徳的堕落の蓄積である」(『資本論』第1巻第23章)

それから、もう一つ。“市場原理主義マンセー”な方は、口を開けば「結果の平等より機会の平等」だとか「公正な競争ができるようになる」だとか、おっしゃるわけですが、それならば、5年近く前に明らかになったニュースを思い出してみたいのです。それは市場原理主義のイデオロークの一人、竹中平蔵氏(あの金融・経済財政担当相をへて、現在は総務相のアノ方です)が日本マクドナルドの未公開株をもらっていたというニュースです(保坂展人衆院議員=社民党=が国会に提出した質問主意書答弁)。あのマック(私は滅多に行かないのですが)を運営する超優良企業の未公開株なんて、公開したらドーンと値上がりしないわけがない(実際したわけですが)、そういうものを手に入れられてしまう方々は、果たして「機会の平等」「公正な競争」がどこに働いていたのかと。

ちょっと脇道の話題まで持ち出しましたが、「格差の拡大」を否定したいばかりに、「悪いことではない」などと言い出したら、それこそ所得再分配をする意味はなくなりますし、つまり、「政治」そのものの意味がなくなることになると思うのです。その意味で、今度の首相の一連の発言は、これまで以上に重大な発言だと思うわけですが、いかがでしょうか?

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